2018年3月10日土曜日

マノン・レスコー②



冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。

時代は、フランス。
マルタ騎士団に入って欲しい一心からグリューをシュヴァリエと称する父。相当に裕福な階級であり、それはつまり、読書という存在がそのような階級に一般的であった事を示唆する。
アミアンに住むグリューは、17歳。哲学の教育課程を終了した時に、マノンと出会う。
初対面のグリューは、マノンに対して、浮かれて、我を失う。ありとあらゆる自分が知ってきた雄弁術を駆使する。身体中の血管に甘美の熱気が広がる。対して、マノンは、困惑した様子もなく、グリューの気持ちをすぐに察知した。なんと男慣れした女性だろう。2年後、マノンは18歳になっていることから、この時点でのマノンは16歳である。あぁ、運命とはいかに残酷で美しいものか。僕が彼女と出会うには一年早かったのだ。太宰が称する処女の年齢が16歳であり、Sound of musicでの少女も16歳である。” I m  a sixteen, you are seventeen.”と甘美なメロディがあなたの脳裏に鳴り響くであろう。もちろん、年齢を比較すると、痴人の愛のナオミが譲治と会ったのが15歳の時だし、若紫が源氏とむすばれたのは14歳だし、マリユスが恋した時のコゼットも14歳だ。ドロレス・ロリータは12歳の時に見初められた。
マノンとグリューはすぐさま恋に落ちた。人目を憚らず愛撫をし、愛情表現をふんだんに利用する。
マノンは才気溢れる、心根がよく、優しく、美しく、素晴らしい女性である。

この時から、一人この物語の重要なファクターであるティベルジュがグリューの友人として存在している。グリューをティベルジュがどのように思っているかも重要な事だ。僕にはかなりホモセクシュアルな人物に見える。

二人は、アミアンからサン=ドニに駆け落ちし、世界を知らない二人は、裕福に暮らす。
そのうち、お金が尽きてきているにも関わらず、マノンの身なりは美しいままであり、近くのB氏とマノンが不貞を働いており、そちらからの援助であることがわかる。マノンはB氏と協力して、グリューを家族の元に返してしまう。
なんという悲しい事だろう。グリューは悲しみに打ちひしがれ、六ヶ月の監禁を受ける。
裏切り者マノンに対して、憎しみが襲い、許さないと罵詈雑言を唱える一方、愛情も見せる。彼女さえいれば、他の何もいらない。キリスト教の神父のように生活することが良いと諭され、”思慮深く、キリスト教徒としての人生を送るようにしよう”と心がけるもこれには、マノンが必要なんだと考えてしまうほどである。
もう死んでしまおうとも思うが、ひとえにそこから救ってくれたのは友人のティグリジェだろう。

この監禁時代に彼が読んだ「アエネーイス」第4巻を参照したい。

そして、2年間、なんとかマノンを忘れることができたかのように勉学に励んだグリューは、聖職録にも記録され、パリで名を知られるようになった。
そこで、マノンは彼に会いに行ってしまうのである。もしかしたら、何人かの読者は、マノンが尻軽女に見えるのかもしれないが、僕は、マノンの言を信じる。
その時のマノンは、グリューには、繊細で、優しく、愛の神そのものであると評される。
愛の神というと、やっぱりはじめにパッと頭に浮かぶのは、ヴィーナスだろうか。

マノン「自分の裏切りのせいであなたに憎まれるのは、当然の報いです。」
マノン「でも、少しでも、私のことを好きなら、2年間もの間、私の消息を知ろうとしないなんてあまりにも冷たくないでしょうか。」
マノン「今も言葉の一つもかけてくださらないなんて」
グリュー「不実なマノン!裏切り者!裏切り者!」グリューは声を荒げてマノンを罵倒する。
マノン「不実の弁解をしようとは思いません」なんと潔いのだろう。浮気をしたことは真実なのか、あぁ、僕はそれでも、そう言ってほしいわけではないのだと思う。
グリュー「それなら、どうしようというのだ」
マノン「死のうと思います。」マノンは言う。「もしあなたの心を私に返してくださらないのなら。あなたの心なしでは、私は生きていけません。」
グリュー「それなら、僕の命をよこせというのか!そういうがいい。僕が君に捧げることのできる、ただ一つのものだ。なぜなら、僕の心は、いるだって君のものだったのだから」

弁解はいらないのです。愛が欲しいのです。
この点が、この物語では、終始徹底されていると僕は感じている。これからそれを立証していくのだ。つまり、マノンは裏切ることと享楽に溺れることは多々あるが、根本はグリューを愛しているのである。真実はもちろんわからない。人によっては、マノンは口だけなんだろうと存外な仕打ちを与える人もいるだろう。しかし、僕は、ことさら愛に限っては、等の本人たちが勘違いしているのであればいいと思うのだ。浮気をしてもばれなければいいというちんけな発想ではない。浮気をされても、愛する女性から、それでもあなたが好きと言われれば、僕はそれを許してしまうのだ。

マノンは、グリューの絶対的な支配者である。マノンはこの時点で貞淑を誓う。

グリューは、愛が故に許している。しかし、もちろん、かといって、貞淑を信じれるものではない。裏切りが心に与える影響は計り知れない。

マノンは、"被造物としては、あまりに素晴らしすぎる。勝利に輝く歓喜に心を奪われていく。君のために栄達も名誉も失おうとしている。君と一緒でなければ、どんな幸福も取るに足らない”
僕は、これを愛という。

きわめつけは、マノンのグリューへの発言である。
「Bといても、楽しいことは何もなかったわ。心のそこは、あなたの愛の思い出と、自分の裏切りへの悔恨しかなかった」
これだけを僕は、求めているのだ。つまり、愛されたいのだ。
僕の愛するヘプバーンも言っている。「愛されたいの。愛しているのだから。」

そうして、二人はシャイヨに住み始める。資金は60000フラン。しっかりした質素な生活なら10年は持つであろう金額だが、マノンは案の定、享楽に夢中である。呆れるけど、僕は女性はこれでいいとも思っている。好きなことを好きなだけさせてあげたいのだ。

ここで、マノンの兄が登場する。
マノンにせびる意地汚い兄。だが、それは、フランスの当時の(いや現在もそうだと信じたいけど)不貞に対する嫌悪感の現れだ。
兄「たとえ、一番愛する男のためとはいえ、女としての道を踏み外したのだから、自分が妹と仲直りをしたのは、もっぱら、身持ちの悪い妹を食い物にしてやろうと思ったためだ」

シャイヨの悲劇。家が燃える。
また無一文になるグリュー。金がないとマノンをつなぎとめることができないのは承知している。

2018年3月3日土曜日

マノン・レスコー①


マノン・レスコーは、アントワーヌ・フランソワ・プレヴォー(1697-1763)によって1732年に作成された恋愛小説である。 
僕が最も愛する書物の一つである。しっかり考察するため、マノン・レスコーについては、何度かに分けて考察したい。
初めて読んだのは、僕が大学2年生、19歳の時。神戸市立図書館で、研究の合間・授業の合間の平日に行ったのか、それとも休日に行ったのかは覚えていないが、世界文学を読むという簡単な説明本に書いてあった、マノン・レスコーを読んでみたいと思い立って、蔵書を検索したのが初めだ。
蔵書は1階の通常のスペースには置かれておらず、書物庫からわざわざ持ってきてくれたマノン・レスコーはとても古く、大体A4版くらいの大きな黒い図鑑のような本だったように思うが覚えていない。
窓際の日が差し込む席に座り、ぼくはその本をペラペラとめくり始めたのだ。気が付いた時には夕方になっていた。熱中し、その時に一気に読んでしまった。
理想の女性がそこにはいた。
僕には、マノン・レスコーが理想だった。マノン・レスコーは、高校生の時に愛していた彼女とものすごく類似しているように感じた。それ以降も僕は、マノン・レスコーが女性像のイデアだと考えている。
さて、好きな本が何かと友人に聞かれることが多かったため、僕は、マノン・レスコーを当然のように紹介したのだが、それは僕が読んだ本ではなくて、新潮文庫であった。僕は新潮文庫のマノン・レスコーを読んでいなかったため、自信を持ってオススメをすることができなかった。なんとなく、中身を眺めると、なんとなく異なった印象を抱いていた。
いつか、神戸市立図書館に眠っているマノン・レスコーと同じものを購入しなくてはならない。その心持ちで生きてきた。
2018年1月7日、三ノ宮にある紀伊国屋書店で、カフカの変身と、ホフマンのくるみ割り人形を探していた。光文社文庫の古典新訳シリーズの装丁が気に入っていたから、それを買おうかと思案していた。
そこで、見つけたのが、マノン・レスコーだった。驚くべきことに、第一版は2017年12月20日出版だった。これは買うしかない。そして、今に至るわけである。
本を再読するという経験は僕はほとんどない。勉学になってしまうことが多いからだ。
しかし、この本は再読の価値がある。まだ途中ではあるけれど、ことこまかに評価したいと心から願っている。

書くということについて

書く内容について、特に言及していきます。
内容について。
論理的に道筋を立てて、ここでいう論理的という言葉はまやかしみたいなもので、僕は「論理的にいうと正しいと思う」などと能書きをたれる輩は信用していません。どんなふうに論理的に考えたかという論理的の内容が重要なはずです。というのは、人を説得したり科学をする場合には、皆、絶対に、個人的にできる範囲の論理的思考を展開しているからです。そのため、「論理的に考えました」という文言は至極当然極まりないことなので、そもそもそれを述べる必要性もありません。もちろん、全く論理的に考えず直感的に話をする人に対しては、論理的に考えてくださいと指導することは絶対的に必要と考えます。
話が逸れましたが、論理的に道筋を立てて論理を展開した場合、その内容は、前提の真偽が変貌することがあるかもしれませんが、仮言命題と仮言命題への認識が一個人の中で変化することはなく(本当にないのか?)、それゆえに導き出される結論は同等のものであってしかるべきです。もちろん、前提が覆ることがそもそも大いにあることなので、それはなぜかと考えると前提・公理を証明することがそのシステム内ではできないが故です。反例が見つかれば前提は覆るということになります。思考形態に即して考えても、僕らはある前提から思考をスタートさせ、それを前進させていくわけですが、論理的に考えていても、また違う時間・違う場所で考えると違う結論になるのは、前提や仮言命題に対する意識が異なるからなのでしょうか。
哲学は、少なくとも僕が教えを受けた哲学では、「前提から一つ一つ進むものだ」ということを学びました。これは、宗教とは違うと。宗教は前提から論理が飛躍するのだと。しかし、この論理の階段は実は簡単に崩れ去りうるものだということもご了承いただかないといけないのです。すなわち、AだからB、BだからCが成り立つという前提は、どこまで説明できるのかということになります。その穴を埋めていくのが科学でしょうか。
とは言っても、書く内容については、全く論理的に展開されないこともあります。思いのままをそのまま写す場合です。恋文と同等とされます。熱烈な恋文は、論理性が全く存在せず、自己矛盾を孕み、飛躍や迂遠な言い回しなどが多用されています。これは、ルソーのエロイーズの冒頭にも記されていることで、僕はその通りだと思っています。恋や愛は論理性を有しておらず、なぜ?という疑問に答えることができないのがその特徴です。論理は重要である一方、愛の方が魅力的で、恋文のように、非論理的で感情的な文章がより人々の心を掴むものですが、この内容は刻一刻と変化をする生き物のようでもあり、故に、直感的に書かれた内容に対する自分の考えが、一ヶ月後、一年後に書く内容とは異なっているだろうことは容易に想像されます。
さて、この場合、一年後に書く文章の方が、素晴らしいのでしょうか。もちろん、技法は進歩するかもしれません。しかし、思考内容の優劣を誰が決めれるのでしょうか。老人は老人の、青年は青年の、少年は少年の思考を表現することができるのではないでしょうか。素晴らしさの定義もなく、それは現代の権威が考えているだけではないでしょうか。そう考えると、直感的文章の手直しはあまり良くないことなのかもしれないと感じます。
上記の論述は、論理的文章の際にも考慮する必要があると考えます。すなわち、論理的に書いたはずの文や論理的に書かれたはずの文が自分の思考と異なっている場合、それは前提への理解が異なっているか、それとも仮言命題への理解が異なっているのかを認識する必要があると考えます。

2018年1月22日月曜日

チャンク化


だれでもやってるはずなのに、意外とおこなわれていない??

概念
 チャンク化

一度テレビでも取り上げられていました。啓蒙本にはかなりの頻度で出現するこのワード。知らない人の方が少なくなってきましたか?
電話番号とか郵便番号が覚えられる理由に関わっています。ランダムな数字の羅列は11桁(携帯電話番号)も覚えることはできませんが、それを3つ、4つ、4つに分類することによって覚えることができるようになります。
記憶力がいいひとは無意識にこのチャンク化をおこなっていると考えられます。
ひとの記憶できる数字の羅列は7つと報告もあり、これをmagic number 7といいます。それ以上は覚えることはできません。
それでも、覚えることができている理由はこのチャンク化が関与しています。
これに追加して、知識の内面化も関与していると考えます。
例えば、自分の家の住所を覚える時、ポケモンの名前を覚える時、なぜ、覚えることができるのかを考えてみましょう。
・magic numberを超えた容量でも内面化される事で記憶が容易になる。

次に提唱すべき概念は記憶の長期保存と忘却曲線です。

記憶は、復習をしなければ30分後にはー%、24時間後には-%まで減弱すると示されています。

記憶のメカニズムには、作業記憶、短期記憶などがあり、作業記憶は英語で言う「Figure out」と思われます(やってみて理解する)。
これには作業をしている分、記憶を保持するための時間がかかりますが、忘れにくいというメリットがあります(自転車の乗り方、自動車の運転の仕方、友達の家への行き方)。

テスト前に積み込み学習、徹夜をして試験に臨んだ内容は1週間もしたらすっかり忘れていることはないですか?
これは記憶が短期記憶であることをさします。

さて、ひとは憶える時に、まず、情報を海馬に移動させます。そこは神経細胞の可塑性が非常にたかく(可塑性というのは変化することが簡単なことを言います。)、そのため、新規の記憶を非常に親和性たかく保持することができます。
しかし、その反面、さらに新規の記憶が入ってきた場合、神経細胞のシナプス形状やLTPが変化し忘却していくと思われます。
この新規の記憶が入ってくる前に、記憶を定着化させるには、神経細胞のシナプス形成をより強固にする必要があります。そのためには、シナプスの伝導性をあげる。数を増やす。形を大きくするといった方法がとられると考えられます。
つまり、同じ刺激を加え続けることが重要になってきます。だから、繰り返し勉強すること、反復練習が必要になってくるわけです。

海馬には約ー個の神経細胞があり、海馬のCA1からCA3に軸索を伸ばし樹状突起と接続するシナプス形成の数は約ー個といわれています。
これは、シナプスに特異的なシナプス小胞の数と一つのシナプスの数から概算します。ないしは、後シナプス膜のタンパク質の数と一つのシナプスの数(密度)から概算されます。
ひとつひとつの神経細胞が、それぞれひとつひとつの記憶に関与しているという仮説は僕の中では理解しにくい仮説です。この仮説では、ひとの記憶の量はそのひとそれぞれの神経細胞の総量に依存してしまいます。そして、神経細胞の再生が脳のある特定の部位(嗅細胞)でしか行われないという既知の報告を考えると(この既知の報告が近年覆されそうになっています)、この理論ではひとは成長期をすぎると頭のできが完全に決定してしまうことになります。それは、少し悲しい事実なので僕はそれ以外の仮説をより深く検証したいと思います。
神経細胞ひとつと他の神経細胞とのコネクションの組み合わせで記憶を形成するというメカニズムも考えられています。この考えは、嗅球のにおいの判別メカニズムでよく理解されます。においの検出器はたかだかー個しか存在しないにもかかわらず、僕たち人間は数千のにおいを判別することができます。この根拠として、においの検出器の組み合わせを変化させることによって異なるにおいを検出していることが示されています。例えば、カレーのにおいを嗅いだ時、Aというにおいが50、Bというにおいが20、Cというにおいが80と判断をして情報を伝達します。これが例えば、Aというにおいが40、Bというにおいが50、Cというにおいが80だとカレーではなくハヤシライスのにおいになるといった感じです。この理屈だと、たかだか3つの検出器が0-100の数をもっているだけで、100かける100かける100で100万のにおいを検出できるという理屈になります。これと同様のことが記憶の形成にも関与しているのではないかという仮説です。神経細胞がA、B、Cの3つであり、この3つが、樹状突起にそれぞれスパイクを100こもっているとします。記憶する時に活動した神経細胞がこれらA。B。Cとシナプス結合することにより記憶を形成すると仮定し、どのくらいの数シナプス結合したら記憶となるか決まってるという仮説です。これを検証するにはどうすればいいのでしょうか。

2018年1月18日木曜日

本の「使い方」


本の「使い方」
出口治明


著書は、本が好きなおじさんの話に思える。著書内にもあるように本はその著者との対話であると言っている通り、この人が本が好きで、それで、こんな風に生きてきたよ。と言っているようである。

幼少期から本の虫だった出口さんは、年齢を重ねても本の虫であることは変わりなく、生涯本から教養を得ている。

実家では、世界名作全集や日本名作全集が揃っていた。しかし、それらは暗い納戸にしまわれており、日の光を浴びることはほとんどなかった。家族の誰もそれらの本を開いているのを見たことがない。窓のない2畳ほどの狭い空間に3つのタンスと1つの本棚がしまわれており、その本棚に百科事典や名作全集がしまわれていた。小学生の時、僕はその納戸で地べたに本を広げて読んでいたのを覚えている。イソップ童話に含まれる「北風と太陽」、「犬が川に映った姿を他の犬と思ってわんとほえたら口にくわえているパンを落とす話・・・なんだっけ?これ」「ろばが荷物を運んでいて水を含ませたらものが溶けて運ぶのが楽になったから、違う機会にもう一回水につけたら水を吸って重くなってしまう話・・・これも題名がわからない」から、「海底2万マイル」。とても面白く、これから多くの海の生物を調べたことを覚えている。また、昆虫も好きで、「ファーブル昆虫記」を読み漁った。4年生の時には「ズッコケ三人組」シリーズがお気に入りとなり、図書館で借りてきてはしょっちゅう読んでいた。4年生の時のがんばりノート(恩師には敬服せざるを得ない)には「ズッコケ三人組」を題材にした物語を自作している。がんばりノートとは、恩師の先生が作成した自習であり、あるテーマを自分で選んで自学するという内容を小学生でも楽しいようにお店のメニューとして作成されたものだ。漫画もとても好きで、図書館で「銀河鉄道999」を借りて、家族は公園で遊んでいる時に、一人で車内で読んでいた。また、ドラえもんシリーズも読み漁っていた。血液中の白血球や赤血球について書いてある本も読んだが題名は覚えていない。また、当時はトキが絶命寸前という記事を読んでトキに関する本を小学校の図書館で乱読した。
中学生時代には本を読んでいない。おそらく、読んだのは乙一本くらいだろう。気に入ったらその作者の本はほとんどすべて読むようになっている。その他、記憶にあるのは、「バトルロワイアル」を授業中に隠れて読んでいたことくらいで、図書館に行く機会は多かったが、何を読んでいたかは覚えていない。この頃から、図書館に行く理由は勉強をしにいくことであり、読書ではなくなってしまった。
高校生時代、高校2年生と3年生の時の担任の先生に「どんな本が好きか?どのくらい本を読むか?」と聞かれ、「ハリーポッター」と答えた時に「もっと良い本を読みなさい」と怒られた。それから、「脳の中の幽霊」「死体は語る」を読み、そのおかげで今の僕がある(医学部進学のきっかけである)。「脳の中の幽霊」は高校2年の夏休み1ヶ月を使ってようやく読める内容だったが、とても面白い本だ。この本と肩を並べる本は大学生の時に読んだ「マノン・レスコー」ぐらいだと思っている(もちろん、現在は違う)。それから、親友の女性から多くの東野圭吾本を借りて読んだ。「ある閉ざされた山荘の中で」「白夜行」「幻夜」など、おそらく彼の著書は9割は読んでいる。彼は理系の考え方を持っていてそしてエロチックな点がとても興味深い作家だ。他には「アルジャーノンに花束を」も読んだ。その後、受験期を終え、絵画も見るようになった。大抵の図書館や図書室には絵画全集が置いてある。高校のころはピカソやブラックといったキュビズムの画家に印象を受けた。しかし、ピカソが初期に書いたキュビズムではない絵が好きだった。また、シュルレアリスムの代表であるサルバドール・ダリの「内乱の予感」が最も気に入った(ちなみに、正式名称は違う)。これは、アメリカのフィラデルフィア美術館に貯蔵された絵画であり、そのためにフィラデルフィアに大学6年のとき行った(しかし、見れなかった)。その恩師からは卒業アルバムに「理系にしてはいい文章を書いていた」と褒めていただいた。恩師の先生が近年文学賞を受賞したとかなんとか風の便りで聞いた。喜ばしい限りだ。高校2年生の時に読書感想文のようなものを書く機会があって、クラス全体で投票するのだが、僕の感想文は1票程度しか入っていなかったが、恩師の先生には褒めていただけて感激した。
大学に入学し、本を読む機会が少なからず増えたが、読破した本は少ない。生協の方に教えてもらい、「レベル7」「リアル鬼ごっこ」「9月が永遠に続けば」「ひまわりの咲かない夏」「半落ち」「空中ブランコ」「すべてがFになる」「ノルウェーの森」など多くの日本作家の本を読んだが、結局心に響いたのは森博嗣と村上春樹、東野圭吾だけだったように思う。それから、古典も著書に習い読んでいた。高校時代は倫理の授業でフロイトに感銘を受け、フロイトの「精神分析入門」を読もうとしたが、上巻の半分くらいで断念した。それから、「夢分析」も手を出したが読み切ることはできなかった。近くの図書館で名作を簡単に教えてくれる本を読み(題名は忘れた)、「若きウェルテルの悩み」「マノン・レスコー」「嵐が丘」「椿姫」を読破した。中でも「マノン・レスコー」が理想の女性に見え、今でも大好きな本である。
僕も、著者と同じく自己啓蒙本は買わない主義であるが、最近は薄れつつある。何事も試す価値はあると思っているからだ。
本大学医学部附属図書館では、図書コーナーの一角に世界名作全集と画家全集が揃っていたが、蔵書が増えるにつれ、そのコーナーはさらに隅に追いやられ、僕が最上学年となると、とうとう地下に影をひそめることとなった。これは非常に遺憾である。僕は、そのコーナーから「恋愛論」「赤と黒」を読んだし、「ソフィーの世界」もそこから読んだ。
著者の言う通り、古典は普遍的によい。これは本文にあるとおり、市場の競争世界で残ってきた本だからだろう。
仕事が始まり、否5-6年生のころから、本を読む機会がめっきり減った。平日・休日の時間のあるときは本ではなく、パソコンの前にいることが増えた。本のかわりに論文を読む機会が増えた。仕事上、必要な知識を論文から仕入れることが多く、本と言っても教科書の類を読むようになった。
僕の読書は、「好きなものからはいり、その分野を極めることである」ように思う。そして、読書は本のみでなく漫画が大きなウェイトを占めている。漫画は簡単にその分野の知識が入る。それが正しいかどうかはその後成書を読めばいいと思う。「テラフォーマーズ」「信長のシェフ」「バーテンダー」「ちはやふる」など、自分が全く知らない分野について教えてくれる漫画もあれば、「ワンピース」のように純粋に楽しいものも多い。人を成長させる因子は「出会い」であると思う。その出会いは話し議論をかわすことができる人そのものであり本であり映画である。
この姿勢を忘れず、好きなものに没頭する姿勢を忘れずに、これからも生きていこうと思った。

2018年1月16日火曜日

考え方


たまに、啓蒙本を読んでみるんだけど、啓蒙本の有用性を感じたことはない。
啓蒙本は宗教と似ている。根拠だとか実験で証明したなどを最もらしく述べるのでタチが悪い。
それなら、「この本は僕の経験に基づいているので科学的に立証してない。だけど、読者も共感して行動してくれたら嬉しい」と書いておけばいいと思う。    
僕の文章はとても読みにくい。文章の中に生じる省略を極力省こうとしてしまうから。
それはつまり、英文でitを使わない文章のように。

啓蒙本は、多くの場面で役に立つ。役に立つが真実ではない。
真実を本は語ることはない。そこに記されていることは歪曲した解釈だけだ。
事実はそもそも誰かの目を通される時点で歪曲されている。この命題をなんというんだっけ。リンゴが落ちたことを認識していなければ、そのリンゴは本当に落ちたのだろうか?
シュレディンガーはネコが二匹存在することを示した。
量子力学にそうと、確率論に従い、つまり、ネコは50%の確率で死んでいて生きている。
僕らは絶対的に正しいことが存在していると信じられている(わざわざ婉曲に表現してみた)医療という場面にいるが、医療は正しいという概念はない。「らしさ」はその人に起こっていることを直視して生じることではなく、誰が起こっていることを語るかということによって表現される。

ある意味で僕の素晴らしき教師(人はこれを反面教師というのだけど)は、診察をしない。問診もしない。もちろん少しはする。しかし、ほとんど(ここも100%ではないことに留意すべきである)適切な診断を下し、適切なマネージメントをする。なぜか?
これは、医療の世界が驚くほど限定された世界だからである。
医療技術の進歩により、不必要な検査をすることが求められる。近年の優れた業績は、この進歩にコスト・パフォーマンスという概念を導入しているのが最早常識であるはずなのだが。ガイドラインという「画一した治療を」目指した結果、誰にでも、そう、それこそ看護師にも患者本人にも老若男女問わず、画一した治療をその人たちが実践できるように、ガイドラインは想定して策定されている。たったいくつかのキーワードに従った単純なアルゴリズムにより治療は遂行される。もちろん、現状、同様の結果が返ってこないことは多々あるが、「経験豊富な」医師が行った結果は「正しい」か、「仕方がなかった」出来事となる。つまり、誤診をしていても、「経験豊富な」医師の発言はそれだけで権力を持ち、誤診をしていても患者に悪影響がなければ、「現代のシステムでは」「仕方がなかった」と済まされる。
これに応答して、遺伝子検査など「誰が見ても」一つの結果と決まる検査が台頭してきた。この理論に従うと「経験豊富な」医師が誤診をする機会が露呈したかというとそんなことはなく、遺伝子検査もルーチンに行われるようになり、つまりアルゴリズムに内包された。
さて、なぜ、こんなことが起こるのか?
答えの一つに情報へのアクセシビリティの高さがある。
キーワードを認識することさえできれば(これはものすごく重要)、後のマネージメントを間違えることはない。
キーワードの認識の間違い、選択の間違いによって物事は間違った方向に進む。このことは多々ある。
例えば、「発熱」のキーワード「だけ」だと考え、肺炎・尿路感染症と診断し、抗生剤加療を行う医師に対し、「発熱」に「関節痛」が加わった時、偽痛風を想起することは簡単である。
難しい問題は、関節痛の認識が難しい場合にどうするかという問題である。つまり、そんな偽痛風はあるのか?ということ。
これはいつも判断が難しい。
関節痛がない偽痛風が仮に存在するとして、それは、マネージメントをしないといけない状態なのかということである。つまり、誤診してもいい、ということになる。
逆に、咳・痰のない肺炎がある。これを誤診すると死に関わるとなれば、キーワードの選択はほぼ無意味に等しくなる。
要するに、「発熱」というキーワードだけで、抗生剤加療をしておいたらとりあえず間違ってないといことになる。
さて、一つ疑問が生じた。
なぜ、教科書は正しく診断しなさいと伝えるのか?
診断することによる患者へのメリット(もしくは医療従事者へのメリット)がなければ、診断は不必要である。
仮に、「何にでも効く薬」があれば、診断をする必要ない。

2018年1月14日日曜日

火花


火花
又吉
2018年正月の芥川賞鑑賞会第5作目

ものすごく話題を呼んだ、又吉の火花。
ミーハーと思われるのが嫌だから、読んでなかった本。そもそも、二足のわらじは型落ちで、結局のところ中途半端な出来だろうというのが個人的な見解なのだ。
器用貧乏よりも特殊能力の方が好きだから。

医師と何かという二足のわらじはすごく多い。が、僕はどれも快く思わない。
二足目、いやいや一足目から二流だから。
ダヴィンチや他誰か知らないけど、昔はまだまだ二足履くことが出来た。もちろん、町医者と天文学者でも二足と言われるだろうし、実際に自分で評価したわけではないし、何かを発見研究してても、それしかないのであればそれはわらじじゃなくて、一時的に履いただけでしょうと思っている。
森鴎外だってルイス・キャロルだって、いや、彼らを引き合いに出すのはよそう。僕は彼らの批評をするほど彼らを知らないから。テレビに出ている医師・医学者として突出してもおらず他のこともしています、すごいでしょうは通じないのではないかと思っている。
なんなら、今の僕が、他の職業になれば、二足のわらじになる。なんて愚の骨頂ではないか。医師としてすら、何も突出していないくせに。
じゃあ、どこまでいったら二足のわらじというのか?
僕の中では、世界的に評価されて初めてだと思う。ノーベル賞をとったら、オーヘンリー賞をとったら、フィールズ賞、アカデミー賞をとったら。今の世の中はわかりやすい評価がある。それが正しい保証はない。もの・ことに対する賞は信憑性がない。だって、それは、一時期のことだから。ひとに対して与えられる評価がよりよい評価だ。
芥川賞??だから何?という感じ。と言いながら、「じゃあ、お前が取れよ」という声が聞こえる。おっしゃる通り。もちろん、又吉はすごい。それは揺るぎない。ただ、僕がいっているのは、ベストではない、天才ではないということだけ。

さて、そして、この火花だけど。
はじめと、最後に花火が出てくる。火花と花火は大きく違う。
神谷と主人公の徳永の二人は火花なんだろう。光って消えるのだろう。
自伝的な物語なので、又吉の評価は保留にしないといけないだろう。この作品は非常に又吉だった。
基本的に、思想が一つだった。その思想を強化するために同様の二人がいた。
笑いということに対して、純粋に考えることができた。
考え方がとても、しっくりきた。自分に似ていた。

いくつか記録
"それを最初に始めたものだけが個性であり、それ以外は模倣にすぎないのだ"
”「気楽に好きな事をやったらいいんちゃうか」「趣味やったらね。趣味やったらそれでもいいとおもうんですよ。でも、漫才好きで続けたいなら、そこを怠ったらあかんでしょ」”
“誰かには届いていたのだ。少なくとも、誰かにとって、僕たちは漫才師だったのだ”
"絶対に全員必要やってん”

どれも、心に響く。そして繰り返しの技法を使用しており、心に残りやすい。ただ、押しむらくは、登場人物が又吉に言わされていたように感じたところ。必然性がなくその話が出てきていたところ。そこが残念に感じた。なんとかして、その偶然の必然性を生み出す方法を知りたい。

徳永の考えを述べるところもそう。僕も同様の技法を使用したがるが、でも、それは、徳永が言っているのではなく、又吉が言っているのでしょう。という感じだった。サルトルの嘔吐も小説であり思想本だから、そういう形もありだ。僕は肯定します。
とにかく、又吉の二作目に期待。どんな小説になるんだろう。。

ちなみに、僕のこの物語の印象は、「僕らがやりました」だった。

マノン・レスコー②

冒頭はご存知の通り、この物語は、グリューの言をプレヴォーが書き記したのだという二重構造になっている事を説明する。ということから、これは、自伝ではなく、単なる回想録でもないことが仄めかされており、そして、それゆえにフィクションであるだろう事に対する許しも得られる。 ...